081128
5:50起床。シャワー。可燃塵出し。
雨は、ぱらついている。どうしようか。
昨夜メールが来ていて、211のYさんの窮状に付いては、会長の話では、民生委員は承知されているらしい。ご家族が承知されているので、民生委員は手が出せないらしい???。
そういうものではないと思うが・・・・。
28日の晩は、母の血圧が80台になり、70台になり、アラームがなるため、帰れなかった。
その状態で、尿が減り、むくみが増え、SPが低下しだした。オシロ波形監視になる。
一晩、血圧や、心電波形に注視しながら、夜を越える。
081129
しかし、越えたと思った朝は一段とBP低下した。70を切る。酸素は4L流しても、satuが上がらなかった。先生が多分看護師に言われ来られた。たまたまこの昼の看護師は新人の担当だった。
冷静な表情ながら固かった。先生は「もう、一両日ですね」と言われた。Jに電話した。病院に向かっていた。
10時の先生の宣言より、現実は急速に悪化した。
10時25分、BP測定不能。脈搏が遅くなる・・・。波形が飛ぶ。
やがて、水平波形が多くなる。
パルスと水平が半々になる。
水平になる。Satu測定不能。呼吸が弱くなる。やがて止まる。
先生は聴診器で心音を聞く。瞳孔を看る。
「・・・・・です」といわれた。
「よく頑張ったね」と何度も額をさすった。
「10:39です」と先生は死亡時間を呟かれた。
清拭を待つ間、先生は、ご希望があれば死因明確化の解剖は出来ると仰ったが、母の天寿はそれを許さないと感じて、お断りした。
Jは間に合わず、10:50分に、温かい額に触れた。
清拭があり、長襦袢・袷、足袋をつけてもらい、地下の霊安室に安置された。
葬儀屋に電話した。
お寺の都合を確認した。
結局、12・1友引で、通夜今夜、30日葬儀となった。
母のせっかちな、性格がそのまま旅を急がせた。
12:30搬送。
師長とナースが見送ってくれた。
火葬は八事が満杯で郊外になった。
緩やかに流れていた時は、堰を切って怒涛と変った。枕経を上げたいただいた。
各所に連絡する傍ら、区役所へ行き、死亡届を出し、火葬許可をもらう。
帰ると湯灌だった。
母はエステに行った様な顔になり、薄化粧をしてもらい、
経帷子を襦袢代わりに袷を羽織って、棺に入った。居場所が定まった。
通夜はそれでも始まってしまった。